好きなことで生きていく
自由に生きていく
すでにこれらは使い古された謳い文句かもしれない。
しかしそうはいっても、
自由に生きていくとはどういうことだろう。
自由に生きていくために必要な考えはどういったものだろう。
ということを考えていく。
目次
鞄
私が高校生に時に、「鞄」という文章を読んだ。確か、阿部公房という人が書いたものだったか・・・
私の現代文の授業の中で、非常に印象に残っている代物だ。
二種類の自由
鞄という作品では、間接的に「自由」「将来」「選択」が語られている。
そこで読み取ることができるのは
二つの自由だ。
自由其の一
これは「鞄」を使って表現されているものだ。
不思議なことに、その「鞄」を持つとたちまち体がガクッとするような感覚を覚える。背骨がどんどん腰骨に沈んでいくような感覚。
その鞄(自由)は、持ち主をもちろん自由にしてくれる。
鞄が導く先へと、持ち主は
どんどん、
どんどん、
どんどん
どんどん
進んでいくのだ。
そこには「迷い」の”ま”の字も無い。
持ち主は、なすがままにどんどん進んでいくのだ。
つまりこの自由は、一体どんなものからの自由であるのだろうか?
不安?
選択?
考えること?
いや、おそらくは上に挙げたもののすべてからの自由だ。
持ち主は、
- 不安に恐れる必要もない。
- わざわざ選択に悩む必要もない。
- そして考える必要すらない。
辛いこと、苦しいことから見事の自由にしてくれるのが、この自由だ。
この自由は一種の麻薬とも言えよう。
一度自分で自由になる必要性が無いと思ってしまったら、人がわざわざ苦しいものには戻りたがらないものだから、
その「自由」から離れることは不可能に近いと言ってもよいかもしれない。
自由其の二
この自由は、先ほの自由とは対極にあるものだ。
先ほどの自由は、いわば「解放」みたいな意味合いを持ち合わせている。少し受動的な意味合いに近い。
なんせ苦悩、苦痛から
「解放される」のだから・・・。
自由其の二は、受動的ではなく、能動的な動きだ。
つまり「鞄」を捨て去ることだ。
自由其の二の「自由」はいわば、「選択」に近いニュアンスを持っている。鞄によって支配されてしまうのではなく、
自分で自分を律するということだ。
しかしこの自由には、さまざまなものが伴う。
苦悩、苦痛、選択、悩み、孤立。
さまざまなものだ。
自由其の一と比べると、ある意味では「自由ではない」かもしれない。しかしある一点が、
この「自由」を自由たらしめている。
それは自分で考えることができるということだ。
自分で考え、あわよくば自分で行動し、自分で選択し、自分で将来を決める、そして自分自身で「自由」を獲得する。そのための自由なのだと私は考える。
例外 不自由其の一
先ほどまで、自由について触れたが
ここでは「不自由」について考えていこう。
不自由其の一は、どういったものだろう?
実はこれは、自由すぎることによって起こりうるものだ。
極端な話
選択肢が2個ある場合と、
選択肢が、179兆2648億3351万9923個ある場合では、
前者の方が選択することが簡単だ。
後者のように、選択(自由)が大きすぎると返って不自由に感じる可能性がある。
自由と不自由は常に表裏一体。
自分がそうだとはおもっていても、意外なものが後ろに隠れている可能性がある。
人間万事塞翁が馬って諺もあるぐらいですから。
自由になるために
さて、ここまで二種類の自由を紹介してきた。(後不自由も)
あなたはどちらの自由を選ぶだろうか?
もちろん
どちらかが一方的に優れていると断定することが出来ない。
私は全知全能じゃないし。
もしかしたら、他にも新しい「自由」というものが存在するかもしれない・・・。
しかしあなたが自由とは何か?自由になるためには?ということを考えている時点で、あなたは選択や思考をするという自由に手を伸ばしつつあると私は思うんだよね。
ここでもう一度、先ほどの自由を見てみよう。
自由其の一は
苦悩、苦痛、選択、悩みからの「解放」という名の自由
いやもしかしたら、「鞄」という存在によって支配されている「不自由」という名の自由かもしれない。
というものの、
この考えが正しいとは限らない。
自由其の一を「不自由」という名の自由と決めつけるのは、
もしかしたら「自由」というものを自分で考えるという自由其の二の考えに基づき、
支配されている考え方かもしれないからね。
今思い返せば、阿部公房の「鞄」という作品は自由其の二の重要性を伝えたかった作品という結論に落ち着いた記憶がある。
実際にこの作品もその意図をもっているのかもしれないが、それは一つの考えにとらわれているのではとも考えることもできる。
そして、自由其の二
これはいわば選択の自由だ。もちろんこの考え方絶対的、恒久的なものだとは思わない。
でもまぁ自分で考えることは重要じゃない?って感じます。
人間は社会の中で自動的に生きてるだけに過ぎませんが、一人一人の人間が確かに意思を持っています。
人生一度きりです。
そして人生は何もせずに過ごすには、あまりにも長すぎますね・・・。本当に長いです。
今なんて人生100年時代とかいわれてるんですよ・・・!そんなに行きたくないですけどねぇ。
ここで少し引用を。
オレがしりてェのは楽な道のりじゃねェ
険しい道の歩き方だ
『NARUTO -ナルト-』
私はこの言葉が大好きです。
道徳の教科書はもうナルトでいいんじゃないかな?
まさにこのセリフは、自由其の二を表しています。
自分で道を切り開いていく、簡単なことではありません。口にするのも難しいでしょう。
でもこういう生き方もありかなって思うんやねんな。
まとめ
自由への考察どうでしたか?
私はどちらの考えが良いとは思っていません。
これは個々人によって変わってくるものです。
そして私もどちらが自分に適しているのかは、分かりません。
自由其の二を選んだとしても、それを妄信しつづけるのならば、
それもまた考えることから「解放(自由)」になっている自由其の一じゃね?
って思います、
いやまぁ、ムズカシイですね。