あなたはどちらですか。
理系ですか。それとも文系ですか。
もし理系なら、あなたはいったいどんなことを勉強しているのでしょうか?
もし文系であれば、あなたの専攻している分野は何ですか?
では質問です。
あなたの勉強している分野は、文系に関係無いものですか?
あなたの勉強している分野は、理系に関係の無いものでしょうか?
と質問をしてみます。
というのも、私がとある本を読んでいる時に、こんな風に言っている文章がありました。
現代に生きる私たちは理系的思考を身につけるべきだと思っています。
少し大きな話になりますが、日本で起こっている社会問題や環境問題、ひいては世界の国々での紛争や政治的な問題について、冷静に科学的に議論するという環境がなくなってしまうのは、とても怖いことではないでしょうか。感情的に高ぶって判断したり実行したりしてしまうとなると、中世の「魔女狩り」に戻ってしまうような気がします。
斎藤孝、2013、「文系のための理系読書術」、集英社インターナショナル
これは大学生だけでなく、人間全体に言えることだと思いますが、
今回は大学生に的を絞らせていただく。
大学生。時間ありますよね。とんでもなく
そんな彼ら、つまり「日本」の大学生が何をしているかと言えば、大体「遊び」でしょう。
私的にはそれはとんでもなく不安です。
目的があって学業以外にすることがあるというのならまだしも、特になんもしねぇ、めんどくさいなぁと言っている人のことを不安に思う。
大学生全体が科学的に議論する能力を身に着けるべきだ!とまでは言いませんが、それにしても大学生の半数以上がそういった能力を持ち合わせていない事態は憂慮すべきものです。
だって怖くありませんか?
毎年大学を出る人たちの半数近くもしくはそれ以上の数が、まとも議論の為の能力も身に着けず、専攻分野に関して大した知識も無い。
これがず~~っと続くんです。
社会にはどんな人間が溢れ出すと思いますか?
これから先は・・・。ご自分で。
目次
何をすべきか。
結局です。
結局オススメしたいのは、本を読むということです。
本をある程度読めば、少なくとも多少の知識なり身につくと思います。
だから本を読みましょう。
もう一回言います。
本を読んでください。本すら読まない、読んでいない、読めない。こんな惨状がまかり通っていいのかい?
スマホで情報何幾らでも手に入るでしょう。それも手軽に、速く、苦労なく。
ですが、碌に苦労もせずに得た情報はあなたの中に残りますか?それは知恵となりうるでしょうか。
な~んにも考えずに、苦労せずに主体的に行動することもない人は好きですか?
そんな人が社会に溢れ出したら、一体どうなると思いますか?
考えよう
科学的な議論をするためには、考える力が必要だ。
だから考える訓練をしてみるといい。
ではどんなことを考えるのか?
それは答えの無い問いだ。簡単に答えのでない、もしくは答えを出すことが難しい問題について考えを巡らせてみよう。
例えば
普段は意識しないが、日常会話を文法的な適格性という観点(形態論)から見て、可笑しな部分があるのかないか考えてみる、とか
「美」の定義を生物学的な面と、哲学的な面から見てみよう、とか
外国語学習の期間は、学習する言語が多ければ多いほど短くなるのか、とか
「男」と「女」という区別は、単なる簡素なカテゴリーの一種にすぎないのか、とか
きっとこんな(無駄な)ことを考えることができるのは、学生の間ぐらいでしょう。働き出したら、ほとんどの人は時間がありませんから。
日常生活においても、「考える」ことは役に立ちます。
仮説、実験、観察、検証、修正、仮説、実験、観察、検証、修正、仮説・・・という風にどんどん繰り返し行きます。
なにも大層な実験をしてみろ!といっているのではありません。
例えば、電車に乗って通勤している人ならこんなことをしているかもしれません。
慣れない路線の電車に乗ろうとしたが、上手く乗り換えできなかった。挙句の果てには、乗った号車のところにたくさんの人が入ってくるじゃないか・・・!
こんなの乗ってられるか!と思うが、この電車が通勤手段だからすぐに変えるわけにはいかない。
そこで、あなたは別の時間帯、別の号車に乗ってみようと考えた。
そこで実際に乗ってみる。するとどうだろう。人が依然電車に乗ったときよりも少ない。吊革に必死に手を絡める必要もない。
そしてもう一度同じ時間帯に電車に乗ってみる。やはりその状況、時間帯の電車に乗ることがより快適であることが分かる。
こんな感じ。
別の状況での乗車をしようという仮説。
実際に行動に乗ってみるという実験。
その状況の把握をしたり、感じたりする観察。
もう一度その状況の確かめて、自分の仮説を論拠だてるための検証。
日常の中にも、科学的な思考法は存在しているもんです。
考える葦
人間は考える葦である、
パスカルはそう言いました。
おそらく人間が「人間」でいることが出来るのは、考えることができるということが一つの要素があるからです。
逆から言えば
自然界に存在している、せいぜい考えることしか取り柄の無い矮小なものたちだと言っているのでしょう。
ならば、考えることを放棄した人間は一体なんなのでしょうか。
それは単なる箱に過ぎないのでしょうか。それともよくわからない「 」なのでしょうか。
まとめ
- 文系と理系という枠組みにとらわれない
- 本を読め
- 考える
- 考える
- 考えまくる。