よく受験でも取り上げられりする、
外国語で考えるほうが、より合理的になれるという考え。
聞いたことがあるひともいるのではないでしょうか。
ここではその考えについて、批判的に考えてみようと思います・・・!
目次
そもそも?
そもそもなぜ外国語で考える方が合理的な判断ができるといわれているのでしょうか?2015年あたりで発表された結果だとそうだった気がします。
母国語でない言語では、感情的な言葉に対して即座に感情的な反応が引き起こされないということがあり、外国語で考えるとより合理的、功利的な考えが可能になるんだとか・・・。
まぁ、つまり頭の中にある認知資源(使えるエネルギー)が感情的な思考には費やされることが少ないってことなんです。
本当に合理的か?
確かに、第二言語は、自動的に起こる反応から距離を置き、分析的思考を促進し、短絡的で感情的な反応を減らすという利点がありますが
それがすべての場合にあてはまるかと言われれば、違うようなきがします。
合理的判断、功利的判断は
母国語
↓
外国語上級者
⇓
外国語下級者
という順番でその確率が上昇します。
そして合理的判断の上昇と同時にあるものも、また上昇していることに気づきませんか?
それは言語への適応度、慣れ具合です。
母国語、外国語上級者、外国語下級者という風になっていくと、言語への慣れ具合がどんどん下がっていきます。
さらに大きく母国語と外国語で区別した場合は、
母国語
情動的な反応をしたうえで、功利主義的(合理的)判断をする
外国語
知情意の働きが十分に機能していないうえで、判断をする
と言われています。
あんまり合理的じゃない?
外国語の場合だと感情的に考える必要性がなくなり、罪悪感などを感じずに合理的になる!みたいに言われています。
でも考える必要性が無いのではなくて、
考えることが出来ないんじゃないのって思うんです。
さきほど認知資源って書きました。
認知資源とは、
認知資源とは、注意、集中、自制など、脳が活動をするときに使うリソース=「頭の余裕」を表したもの
といわれています。
あなたが外国語を読んだり、聞いたり、話したり、もちろん書いたりするときも、「文法」や「語彙」、「意味」などをたとえほんの少しでも注目しなければなりません。
つまり外国語で考えるということはこういったものたちに、「認知資源」を費やさなければならないというわけなんです。
外国語の解釈で多少なりとも「認知資源」を使い、理解などにつとめなければならない状態で、感情的な部分まで「認知資源」を使うことができるでしょうか?
外国語ではむしろ、言語的な処理に対して集中的に「認知資源」が充てられても、
(「合理的」なのでなくて、合理的に「見える」だけじゃないか・・・?)
感情喚起や感情推論、総合的な判断としては「合理的」とは言い難いのではないのかぁと感じます・・・!
結論
外国語で考えても
そんなに
合理的ではない・・・!