努力は人を裏切らないぃ?
私はそうは思わない。
努力は平気で人間を裏切る。
幸運は大抵の人にはやってこないのと同様、努力が実ることはそうそうあり得ない。
努力できるのはなぜだろう?
努力をしつづけられるのは何故だろう?
目次
努力とは
まず言おう。
私の今までの経験、知識からいって努力は自分一人でなせるものではない。到底あり得ない。
努力するということは、つまりは自己実現、自己を高めるために切磋琢磨することだ。
しかし注目しべきはそこではない。
アブラハム・マズローという人がこのような考えを持っている。
マズローの欲求段階説というもので、人は低次の欲求を満たすと、高次の欲求を満たそうとするという考え方です。
観光にもこういった考えはよく使われます。
され、これがどう「努力」とかかわってくるのか?
それは簡単なことです。
「努力」とはいわば「自己実現欲求」のこと。
努力できるということは、自己実現欲求より低次の欲求が満たされているという見方も可能です。
そしてこれらの低次の欲求は、日本であれば大方満たすことができます。
特に未成年は、保護者に頼ってこれらの欲求を満たす傾向にあるといっても良いでしょう。
努力できるのは、あなたの力だけではない
とは、こういうこと。
努力できる環境そのものが成立していなければ、努力をすることはできないのです。当たり前のことですが・・・。
努力は素晴らしいことです。
自分をより高みに置くべく、懸命に精進する。
しかし凄いのはそこだけではありません。
努力できる環境が成り立つには大変な労力を要します。
生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、承認欲求。これらの4つを満たす必要性が出てくるので、簡単なことではありません。
住む場所、食べ物、衣服、家族、友達、自分を認めてくれる存在
これだけ貴重なモノや人が存在する環境があって初めて、努力をすることができる人がほとんどです。もちろん例外はありますがね。
努力という課金要素
努力は誰にでも平等だろうか?
努力をすれば、だれでも偉業を成し遂げることはできるだろうか?
まぁ。「はい」と答えることもできる。
しかし
努力はいわば課金要素の一つだ。
金が無ければ、
低次の欲求4つを満たすことはできないだろうし、努力をするというステージに立てないことも多い。
それに学歴と親の収入には相関関係がみられる。
東大の入学者には、高額な収入を得ている人の割合が多い。
十分な収入によって、子供は自己実現以外の低次の欲求を満たすことには大した労力は必要ない。
ただひたすらに自己実現のために頑張るだけでいいのだ。
努力は課金要素だ。
努力もまたつらく、忍耐を要するものだが、それはまた一種の贅沢ともいうことが出来る。
明日のごはんをわざわざ心配することも無い。
寝ることができる場所もある。
衣服もある。
仲のいい友達もいる。
自分を心配してくれる人がいる。
自分が帰属意識を感じ、安心できる集団が存在する。
しかし現代の日本を生きていくためには、それだけでは十分ではない。
努力というほとんど最初から不平等な要素によって、さらに個人間に差が生まれていく。
自己実現は私が思うに、他者への優越に基づいていると思う。
競争する対象がいなければ、自己実現をすることは必須ではないしね。
人生は運ゲー
努力という課金要素同様、
人生は運ゲーだ。
たまたま生まれた場所で、生まれた家庭によって、人生の方向性は大きく変わってくる。
不思議なことだ。
不図、SAOアリシゼーションを見ていて、思ったことだ。
生まれた場所の違いで
彼らはなぜか争う。なぜか殺しあう。持っている魂は同じ美しいものである。
生まれた境遇が、こんなにも大きな力を持っている。それは死ぬまでにも及ぶ大きな力だ。
努力はたまたま裕福に生まれた家庭ができる、金銭的な余裕がある家庭で行えるものであるものが多い。
それがどうだろう。
金銭的な余裕が無ければ、自己実現などしてる暇などない。
文化資本というやつだ。
元々持っている、持つように学習した知識、教養、言葉、習慣、経済的余裕の違いが、その後の人生を決定する場合が多い。
天は二物を与えず、というが
天が二物も三物も、四物も与える。与えまくる。
人生は運ゲーだ。あなたがそういう風に育ったのも、たまたまだし。
今の友達に出会ったのもたまたまだ。
最初っから大体そうなのです。
日本
格差はいたるところにある。
性差別
人種差別
種差別
ブランド
収入
文化資本
身体能力
「格差」は客観的な立場に立ってみないと分からない。
ウォーラー・ステインを世界システム論なんかは、特に「差」についてのテーマが多いきがする。
資本主義社会自体が、「差」をそのシステムに中に元々存在しているもの。
今この世界はほぼ資本主義のハシタメだ。
格差はいたるところにある。
何だか少し話が飛躍しすぎた気がするので、休止・・・!
まぁ後私が言いたいことは、
勉強できる環境にあって勉強しないのは、(特に高校生や大学生)
本当に何しに来てるんだろうなということ。
それは単なる親の穀つぶしと変わらんし、高校生や大学生という皮を被ったニートとも変わらん。
勉強できる環境にあって、勉強するのがスタンダードであるというわけで、正直そこに努力というものは無い。
それがスタンダードであるから。
当たり前であるから。
一番偉い奴は、多分自分が恵まれていると理解して、今できることに尽力する人だと思う。
もう一度言っておこう
努力は課金要素だと。
まとめ
努力
言葉の聞こえはいいですが
努力をするためには、それ以前の環境が有無を言います。
努力をしている人は、努力をしているだけで凄いと思っていけないんじゃないって思います。
努力は当たり前じゃありません。
色んな意味で・・・