2017年
6月に投稿された一本の動画から始まった「ヨルシカ」の波。
音楽でありながら、文学的な面をも思わせ、登場人物のミキシングな思いを第三者ではなく、それぞれの視点からのものとして歌詞を描く。
作品自体が、物語を反映したまさに
「音楽型小説」ともいえる代物。
この記事では、
ヨルシカさんの
ファンのワンオブゼムである大学生が、
彼らの曲を
「哲学」の視点で読み解いていきたい思います。
まぁ、答えは無いと思うのですが・・・。
※今回の検証は「アリストテレス」を考えをベースにしています。
目次
「言って。」は「悲劇」なのか・・・?
ヨルシカさんの「作品」として最初に公開された、
「言って。」
この作品で登場する?のは、「私」と「君」。
この「作品」を聞いていくと、分かるのですが、「君」はすでに逝った(死んだ)ことが判明します。
ドラマやアニメ、演劇、小説、漫画、映画、様々な「物語」が展開されるものにおいて、「死」とは一般的に「悲しい」「悲劇」と結びつけられます。
あのね、私実はわかってるの
もう君が逝ったこと
あのね、わからず屋って言うんだろうね忘れたいんだけど出典: 言って。/作詞:n-buna 作曲:n-buna 編曲:n-buna
作中でも、「私」は「君」の「死」を受け入れ難いものとして捉えていることが伺えます。
「哲学」から
そこで、
「哲学」の視点から見てみましょう・・・!
一般的に悲劇は、
シェイクスピアの4大悲劇「リア王」、「マクベス」、「オセロー」、「ハムレット」そして彼の作品の一つである「ロミオとジュリエット」に共通してる特徴、
「死」と深ーく関わってきます。
そこで、「詩学」第六章より悲劇の定義と構成要素を見てみましょう。
そこでまず、悲劇とは、一定の大きさをもつ厳粛で完結した行為の再現であって、心地よく響くそれぞれの種類の言葉を別々に、作品の部分部分において使い分け、しかも報告形式による再現ではなく、行動する(演じる)人物たちによる再現であり、憐れみと恐れを通じて、そうした感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。
このカタルシスにはいくつかの解釈があり、
- 宗教的・倫理的「浄め(きよめ)」
- 医学的「瀉出(しゃしゅつ)・清浄化」
- 「苦難の浄化」
①番は、「浄め」をすることによって適切な感情を学ぶことができるという「教育的」な面を持っています。
②番は、マイナスな感情を発散することを指します。
③番は、恐ろしい、おぞましい出来事の浄化(忘れること」を指しているのでしょう。
悲劇の要素
そして悲劇の6つの要素を見ていきましょう。
悲劇は
(1)筋、
(2)性格、
(3)語法、
(4)思想、
(5)視覚的装飾、
(6)歌曲
の6つの構成要素をもつとされます。
一から順に構成要素がありますね。そして語法と歌曲は再現の媒体、視覚的装飾は再現の方法、筋と性格と思想が再現の対象と分類される。
また、(1)筋が「悲劇」において重要だということになります。
悲劇とは人間ではなく、行為と人生の再現です。
物事の因果関係が非常に大切になってきます。しかしここまでくると、「言って。」だけでなく、ヨルシカさん全体の作品が「悲劇」なのかと考えなければならないようですね・・・。
なのでここからは「言って。」そしてそのほかの作品群も考察の対象に含みたいと思います!
「死」という点から
この作品たちを
「死んだから悲しい」という単純な切り口で解釈するのはあまりにも卑近ではないだろうかと感じる。
「私」は「君」の死を確かに受け入れているとは考え難い・・・。
しかしそうであるからといって「死」のみに焦点をあてると、
この「言って。」は「悲劇」ではなくなってしまう。
見るべきは過程
「言って。」はヨルシカさんの最初の作品にして、おそらく、「私」と「君」の物語の最後(最期?)であると思います。
現に、「言って。」が公開されてから、物語の核心や過程に迫っていくような作品が続々と登場しています。
「だから僕は音楽を辞めた」
「ノーチラス」
「八月、某、月灯り」
「夜紛い」
などなど。
この音楽型小説が更新されることで、物語を補完し、一貫性が形成されていくような気がするのです。
オイディプス
ここでオイディプスについて触れましょう。
オイディプース(古希: Οἰδίπους, Oidipūs, ラテン語: Oedipus)は、ギリシア神話の登場人物である。長母音を省略してオイディプス、あるいはエディプスとも表記される。テーバイの王ラーイオスとその妻イオカステーの間の子。名前は「膨れ上がった足」の意味。実の父を殺し、実の母と親子婚を行ったため、オイディプースの名は「エディプスコンプレックス」の語源になった
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
作中の主人公オイディプスが父を殺め、母と結婚するという事態は、このことを予言したモノ以外は知っている者はいません。これが劇の前提となっていて、
この事態が徐々に明らかになっていくのです。
現代の「サスペンス」のようなものですね。
そしてヨルシカさんの作品。
「言って。」において、「君」の死が分かっているものの明確な理由は解りません。
なぜそうなったのか、「私」と「君」はどういった関係だったのか。
このようなことが曲が増えるにつれて、だんだんと明らかになってきます。
そうした要素が、悲劇とされる「オイディプス王」と類似し、
「筋」が重要視されていると考えることができると私は思います!
この意味ではヨルシカさんの作品が「悲劇」であると言えます。
まとめ
今回は
「言って。」という作品が「悲劇」なのかを哲学の視点から検証してみました。
途中からヨルシカさんの作品全体で考察しなければならないなと感じたので、関連記事をどんどん書いていこうと思います!